礼拝と賛美のスタイル

この日曜礼拝(6/17)の内容は次の通りだった。司会とワーシップリードは私。説教は玉川師。

 
オープニング: 聖歌572番 「主は力をわれに注ぎ」C
代表祈祷
聖歌486番 「来たれ友よ共にイエスの」G
証しとスペシャル賛美 「初めの愛に帰ろう」
ミクタム赤本よりメドレー
「栄光イエスにあれ」D、「小羊イエスよ」D、「わが神わが主よ」D

メッセージ: コヘレトの言葉 7章7節から22節「神の御業を見よ」 玉川師

主の祈りの歌
献金: 聖歌718番 「すくいぬしの愛と」G
頌栄 聖歌383番 玉川師
祝祷 玉川師
 

いつのころからかこのような進行で固まっている。前任の川上牧師の時代はご自分で選曲して、メッセージの途中に賛美を交える、というスタイルだった。現在の玉川師になってからはメッセージと司会、ワーシップリードまたはソングリードは別という形になっていった。

ちなみに「司会者」とはあくまで礼拝の進行を進める役割で、賛美リードはしない。「ソングリーダー」は歌をリードするだけで、それ以上はしない。 「ワーシップリーダー」は礼拝のすべてをリードする。役割としてはひじょーに重い。その礼拝がスムーズに後半の説教に入っていけるかどうかはワーシップリーダーにか かっている。 

 

どちらのスタイルも良し悪しがある。現在のように前半は賛美、後半は説教と分かれてしまうと、前半の賛美が終わったころに来る方が見られるようになったような気がする。元々時間にはルーズな地域性みたいなのがあって、リハとか時間通りに集まったためしがない。単に遅れて来ただけなのかも知れない(って遅れるなYo!)

逆に賛美がメッセージの合い間合い間になると、説教の内容と絡めて選曲することができるのではないかと思う。反面、奏楽者はメッセージの間じゅう待機状態になるので説教に集中できない(かも)

 

盛り上がり、という言い方はキライなのだが、どちらの場合もいくつか曲が続くことで会衆の状態を霊的に高めるのはやりやすくなる。この場合よけいなことはしゃべらない。ひたすら賛美に徹する。いちいちMCは入れない! 

ヒルソングのカンファレンスでダーリン・チェック師が言っていたが、私たちはスタアじゃない。神さまにお仕えする黒子だと(みたいな話だったと...うろ覚え)

確かにワーシップの様子を見ていると、彼女らが歌い終えたあたりで司会者が沸いて出てきてメッセンジャーの紹介へと移る。そのスキにワーシップリーダーは後ろへ下がって舞台ソデへ「消えていく」のだ。

歌っている間はハデに見えるが、実はそうでもなかったりする。 

 

さて、この日は先日のミクタム・ワーシップ・セレブレーションの様子を報告するとともに、恵みの分かち合いということでこの日歌われていた中から新しいCDに入っている曲から「初めの愛に帰ろう」を紹介した。

いつもリハの時間が押してしまうので、この日は最初からスペシャル賛美の形でやるつもりでいた。本当はバンドが欲しいところだがドラムがいないとつらいので、手持ちのキーボードの自動伴奏機能を使った。

実はコルグのシンセ、i3を2台とix300を1台持っている。どれもオクでゲットした十数年前のモデルだが、これのオートアレンジメント機能がすばらしいのだ。それでついつい教会用、自宅用、ライブ用と買ってしまったという(アホや)

簡単に言えばヤマハのエレクトーン(昔習ってた)についてるような、コードを押さえるとアルペジオで弾いてくれるとか、ベースがちょっとプロっぽいパターンで弾いてくれるとか、あんな感じのの「かなり高級」なやつだ。ix300ではメモリ量も増え、よりインテリジェントな演奏ができる。

「高級」というのは自動演奏の内容がかなり高度だとか、バンドメンバーにして5,6人分になるだろうか、それを最低左手の指1本で演奏できる点。そのサウンドはゴージャスの一言に尽きる。玉川師は打ち込みだと思ってたらしいがそんなことやってるヒマがない。

「かなり」であって「すげー」ではないのは所詮プリセットされたパターン集だってこと。自分で作るにはすごく手間がかかるので、プリセットパターンが合う曲でしか使えない。しかしこの曲はイントロからエンディングに至るまでプリセットだけで完璧な演奏ができる珍しい例だった。(このへんは「やってみた」のネタだな)

礼拝でこんな手アリかな?とも思ったが、少なくとも自分で弾くんだからカラオケCDで歌うよりずっとマシ、と思ってやってみた。曲のイメージはなんとか伝わったかと思う。

 

続く曲はやはりミクタムので聴いた曲。同じ調で似たような曲を続け、折り返し時rit.でゆっくり歌ったあとそのまま最後の曲へつなげる。最後の曲の折り返しは何度も歌ううちにフェイクを入れたりして自由に。奏楽が弾き続けるまま祈りへ...

フェイクはシティプレイズシリーズでスリヤ師がやっているような主旋律に対して対旋律をくずして歌う、みたいなもの。正確にはメロディー・フェイク。カウンター・パートとかも。全部微妙に違うんだけどね。単なるハモリとは根本的に違う。

これをやるにはソングアシスタントが「しっかり」と主旋律を歌っていないといけない。いつもは練習するわけでもなく、成り行きで出てきたら遠慮せず出すようにしてる。賛美集会では霊歌になることもある。

 

なぜフェイクとかできるようになったのか、と聞かれれば学生時代合唱団にいたからとか、ちゃんと和声法や対位法を大学で勉強したから、とか理由はいろいろあるけど、やはりいろいろな音楽を聴いて、あんな風になりたい、と「願った」からじゃないかと思う。シンセだって大学でタンスみたいな本格的なものをちゃんと理解したからいろいろできるようになった。

遠回りしたようで、実はそうじゃなかった。今の自分がこうあるためにあった、と思う...感謝。

 

 

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コメント(2)

ほう、説教の途中で賛美を入れるというのは、あまり聞いたことがありませんでした。一般的に、選曲って、牧師先生自らなさることも少なくないのでしょうかね…?

MCをだらだら入れないというのは賛成!必要以外のことは喋らない方がいいですね、司会者も賛美リーダーも。別に自己主張する場でもないですしね。

司会者と賛美リーダーの役割が異なるというのも同感!そもそも頭の中に曲が入っていなければ、リードのしようがないし、それぞれの専門分野に任せた方がいいですね。

説教者自身が選曲する場合、というか説教者が賛美リードを十分にできる場合、説教テーマに沿った選曲ができるのでメリットはあると思います。

誰でも、というワケにはいかないでしょうが、語るように歌い、歌うように語る、というか。賛美とメッセージが一体化して、それはアリかと思います。あっちこっちの教会を見た限りではあまり見かけないスタイルではあるように思いますが...うちの玉川師の場合、説教に専念したいということで完全に分けてます。

地方にある信徒が少ない教会では奏楽者の確保もままならず、牧師が司会しつつギターを弾きながら賛美リードすることも。

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このページは、jackが2007年6月18日 21:05に書いたブログ記事です。

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